連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 103

水に親しむ人たちを力いっぱい支えたい!

2014.08.13 UP

~水泳指導やライフセービング活動に励む五輪メダリスト、源 純夏さん~

7歳で水泳を始め、14歳のときに50m自由形の日本選手権を制した源 純夏さん。17歳で1996年のアトランタオリンピックに出場し、続く2000年のシドニーオリンピックでは4×100mメドレーリレーで見事に銅メダルを獲得しました。
その後は、地元の徳島市に戻って水泳の指導に励む一方、2012年には自ら代表となって徳島ライフセービングクラブを設立。今年に入ってからは、平成26年度B&G指導者養成研修や海洋センター・リニューアル記念イベントで水泳の講師を務めるなど、精力的に活動の範囲を広げています。
「私は、たくさんの方々に支えられて成長することができました。これからは、私にできることで多くの人の役に立ちたいと思っています」
ライフセービングクラブの設立やB&G財団事業に参加するようになった動機をこのように語る源さん。水と触れ合いながら歩んできたこれまでの道のりや、今後の抱負をお話しいただきました。

プロフィール
● 源 純夏(みなもと すみか)

昭和54年(1979年)5月生まれ、徳島市出身。7歳から水泳を始め、12歳で50m自由形学童新記録を樹立、14歳のときに同種目で日本選手権制覇。17歳で1996年のアトランタオリンピック出場、続くシドニーオリンピック4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得。以後、地元の徳島市に戻って水泳指導に励み、2012年に徳島ライフセービングクラブを設立。今年には、平成26年度B&G指導者養成研修や海洋センター・リニューアル記念イベントなどで水泳の講師を務める。50m自由形日本記録保持者、中央大学法学部卒、徳島ライフセービングクラブ代表、徳島県水泳連盟理事、ワールドスイム アゲンストマラリア オフィシャルサポーター

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第2話4年後のために、いまがある!

アウェイの洗礼

高校生活のひとこま(中央が源さん)。水泳では辛いことが多かったものの、学校ではクラスメイトと充実した時間を過ごしました

 オリンピックで金メダルを獲得した鈴木大地選手や岩崎恭子選手の活躍に刺激を受け、14歳のときに出場した日本選手権大会50m自由形で日本新記録を塗り替え、見事に優勝を遂げた源 純夏さん。その後は、周囲の注目を浴びるなかで地元徳島市の高校に進学し、学校とスイミングスクールを行き来する生活が始まりました。

 「クラブで朝の練習を済ませてから登校し、授業が終わるとクラブに戻って練習する毎日でしたから、水泳以外の時間を過ごす学校生活も大事にしたいと思い、クラスメイトと一緒に充実した日々を送ることができました。

 また、中学時代は水泳の大会に行くにも必ず親やコーチなどの大人と一緒でしたが、高校に入ってからは単独で遠征することを親が認めてくれたので、自分なりの行動が楽しめました。親は私の成長を見守りながら、上手に自立を促してくれたのでした」

 学生生活をエンジョイしながらスイミングクラブで練習に励み、自らの足でさまざまな大会に臨んでいった源さん。ところが、肝心のタイムが思うように伸びなかったため、水泳に関しては辛い時間が過ぎていきました。

 「高校時代は、国内1、2位のタイムでいて、一発勝負の選考会でも基準を満たす順位だったために、アトランタオリンピックの日本代表には選ばれましたが、体が成長する変化を自分で上手に受け止めることができなかったのか、3年間に一度も自己ベストタイムが出ませんでした。当時の私もコーチも、何が原因のスランプかまったくわからず、その脱出口も見えないまま、もがきながら初めてのオリンピックに臨むことになりました」

 アトランタオリンピックの競泳会場は、観客席が高くそびえるスタジアムになっていました。圧迫感のあるそんな大舞台で、源さんは開催国のアメリカ人選手が最初に登場する予選の組で一緒に泳ぐことになりました。

 「開催国の選手が最初に出る組だったので、高くそびえる観客席から大きな声援が渦を巻くようにしてプールサイドに降りかかり、声の振動で私の体の皮膚が震えるほどでした」

 このときの感覚は例えようもなく、いまでも鮮明に覚えていると語る源さん。レースを終えて控室に戻ると、日本代表チームの仲間から顔面蒼白の状態だったことを知らされました。

水から離れた半年間

オリンピックの競技会場には魔物が棲むと言われます。シドニーオリンピックでは銅メダルを手にして観客に手を振った源さんでしたが、前回のアトランタ大会では顔面蒼白のレースを経験しました

 アトランタオリンピックの女子競泳選手団は史上最強と言われ、源さんにも大きな期待が寄せられましたが、中村真衣選手の100m背泳ぎ4位が最高の成績で、メダルは1つも取ることができませんでした。

 こうしたなかで、源さんは50m自由形12位の成績を収めましたが、帰国すると体調を崩して熱が出てしまい、泳ぐことがままならない状態になってしまいました。

 「体調が悪かったので2カ月ほど休養し、ふたたび水に入ったものの思うように泳ぐことができないでゴーグルの中が涙であふれました。戦う準備ができないままにアトランタに行き、その通りの成績になってしまったので、『それはそうだよな』と自分に言い聞かせながらも、これから先どうしたらいいのかまったく分からないでいたのです。そのため、泳ぐことが辛くて仕方がありませんでした」

 2カ月休んでも良い結果にならなかったため、コーチと相談してさらに休養を伸ばした源さん。結局、元の自分に戻ってちゃんと泳げるにようになるまでには約半年の時間が必要でした。

 「当時は泳ぐことが辛いうえに、『また4年後をめざしてがんばらなければならないのか』という重圧や、『4年後も同じ結果だったらどうしよう』という怖さを感じていました。ところが、ある日、偶然にも所属の違うコーチの方から、『4年後のことよりも、目の前のことに集中しよう。その積み重ねが4年後につながるんだよ』と助言してくださって、急に目の前が明るくなりました」

 ひと言のアドバイスで我に帰った源さん。半年の休養に終止符を打ってプールに戻ると、4年先のことは考えず、いますべきことにひたすら向かっていくようになりました。

厳しい環境を求めて

いまでこそ、いろいろなところで子供たちに模範泳を披露している源さんですが、アトランタから帰国してしばらくの間は思うように泳げず、辛い日々を送りました

 練習を再開した源さんは以前にも増して力強く泳ぐようになり、大学進学を迎えると自分を追い込むかのように厳しい環境を求め、大好きな故郷、徳島から離れることを決めました。

 「徳島が大好きな私ですが、このときばかりは地元にいたら前に進めないと思いました。アトランタの繰り返しだけはしたくない。それなら厳しい環境のもとに我が身を置くべきだと考えたのです」

 源さんは地元徳島を離れ、上京して大学に進むことを選択。いろいろな大学の誘いを受けることもできましたが、源さんは自ら選んだ中央大学法学部に進学しました。

 「中央大学水泳部はもともと男子チームなのですが、私の1つ年上の田中雅美さんから特例として女子選手を受け入れていたので、私もそんな環境のなかに身を置くことにしました。当時、中大男子はインカレで4連覇を達成していたので、日本で一番強い学生男子チームと一緒に練習すれば力がつくと思ったのです。また、そこまでしないとオリンピックに出ても納得のいく勝負はできないと考えていました」

 日本一の学生男子チームと同じ環境に我が身を置くことで、さらなるレベルアップをめざした源さん。入学するやハードな練習の日々が待っていましたが、心強い仲間もいました。

今年、久しぶりに大会に出場した源さん。大学時代、男子チームと一緒に泳いで磨きをかけたアスリートの感は、いまだに衰えていませんでした

 「マイ(中村真衣選手)とは同じ歳で、中学時代から日本代表チームのなかで行動をともにしていました。アトランタでも一緒で、帰国した後は2人でマイの地元(新潟県長岡市)に遊びに行ってスキーをさせてもらいましたが、その後、どちらかともなく『一緒に中大に行ってがんばろうよ』、『あなたが行くのなら、私も行く』などと語り合っていました」

 そんな会話をしながら、なんとなくお互いに進む道を模索していたと振り返る源さん。中村さんも中央大学に進学し、源さんと同じように男子チームに入って練習するようになりました。

 下宿先のアパートでも隣同士の部屋を借りたという仲の良い2人。中学時代からの盟友同士は、日本一の学生男子チームのなかで厳しい練習をこなしていきました。 (※続きます)

写真提供:源純夏、源純夏オフィシャルブログ、オフィシャルフェイスブック