連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 72

地域力で叶えた、理想のまちづくり

No.72 地域力で叶えた、理想のまちづくり 長崎県時津町 平瀬 研町長
No.72 時津町B&G海洋センター

自治会との協働によって行政改革を進めた長崎県時津町

穏やかな内海が広がる大村湾に面した、長崎県時津町。3期12年にわたって町づくりを担った平瀬 研町長は、今年11月に「多選は偏った施策になる」と勇退を決めました。 平瀬町長は、「B&G全国町村長会議」初代副会長、ならびに「B&G全国サミット」副会長を務めるかたわら、「ミニボートピア時津」の設置にも理解を示し、その交付金を次世代を担う子どもたちのために使いたいと、「とぎつっ子の夢を育む基金条例」の制定に力を注ぎました。 その熱意は行政改革にも注がれ、自治会を核にした地域の力でさまざまな事業を展開。結果、町の債務の1/3以上を削減することができました。 「国が何をしてくれるのではなく、国のために何ができるのか考えようと言った、ケネディ大統領の言葉を町づくりに当てはめました」と語る平瀬町長。その12年にわたる努力の足跡を辿ってみました。
※現職時における取材のため、記事のなかでは平瀬町長の表記を使っています。

プロフィール
平瀬 研(ひらせ けん)町長:
昭和25年(1950年)生まれ、長崎県時津町出身。京都産業大学法学部卒業後、銀行に就職。その後、郵便局長を経て1999年の町長選挙で初当選。3期12年にわたって町政に携わり、今年10月の選挙で不出馬を宣言して勇退を決断。「B&G全国町村長会議」初代副会長、ならびに「B&G全国サミット」副会長。「ミニボートピア時津」の設置に尽力。
時津町B&G海洋センター:
開設以来、町のスポーツ拠点として機能。周囲には、サッカー場や野球場などで構成された町営の「海と緑の運動公園」が整備されており、海に面した場所には海洋センター艇庫が設置されている。また、利用率も高く「特A評価」を4年続けて受賞している。

第1話町長になったビジネスマン

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穏やかな大村湾に面した時津町。平瀬町長も、子どもの頃には大いに海で遊びました


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競技形式で行う消防訓練など、町内ではさまざま自治活動が展開されています

似合わないネクタイを締めよう

 国内屈指の内海が広がる長崎県の大村湾。その南岸に位置する時津町で、平瀬町長は生まれ育ちました。

 「家の目の前に穏やかな内海が広がっていました。ですから子どもの頃は、夏休にもなれば毎日のように家から走っていって海に飛び込んで遊んでいましたね。いまのように、『あれをしたらいけない、これをしたら危険だ』などと、子どもの遊びについて細かく注意するような時代ではありませんでしたから、それはもう自由奔放に浜を飛び回っていました」

 家では、かまぼこの製造業や魚の卸業などを手広く営んでいたため、物心ついたときには自分も勤め人ではなく、弁当屋でもしようと考えるようになっていた平瀬町長。実際に進路を決めるときになって、その胸の内を人に相談したところ、思わぬ答えが返ってきました。

 「何をするにしても金勘定に強くなければいけない、だから若いうちに銀行に入って勉強したほうが良いと言うのです。私自身は、自分でネクタイの似合わない男だと思っていたので最初は当惑しましたが、確かに事業をするのなら金融に詳しいほうが有利です」

 大学を出ると、似合わないと思ったネクタイを締めて地元の銀行に入った平瀬町長。金融ビジネスを学びながら外回りの営業に励んで地元の人脈を広げていきましたが、就職後14年が過ぎたところで大きな転機が訪れました。

 「地域に新しく特定郵便局ができることになり、地元の郵便局長から次の局長になってほしいと頼まれました。特定郵便局の局長は世襲が一般的でしたが、ちょうどこの頃に制度改革が行われ、2局に1つは、特に新設局においては外部の人材を登用することが進められていたのです」

 外部の人材登用の条件は、金融ならびに営業の中間管理職経験者で、地元の社会事情に詳しいことでした。銀行の営業で地元を回って14年のキャリアを積んでいた平瀬町長なら、まさしく適任でした。

大切な裏方の仕事

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時津町では、昔からペーロン大会が盛んです。平瀬町長も熱心に参加していましたが、自治公民館の役員になってからは大会を支える裏方仕事の大切さを知りました

 最初のうちは返事を渋った平瀬町長。しかし、その話を聞いた一人暮らしのお母さんはとても喜びました。特定郵便局の仕事なら転勤がないため、安心できたのです。

 「いろいろ考えて転職を決めたとき、母が喜んでいたことを知って、これで良かったなと思いました。結果的には、親孝行することができましたからね」

 局長としての仕事のひとつに、どれだけ地域に貢献する活動をするかという点もありました。そのため、地区の長老さんたちから声をかけられ、ボランティアで自治公民館の役員をすることになりました。

 「それまでは、ペーロン(伝統的な漕艇)大会などで自治公民館にはお世話になっていて、イベントが終わると『参加してくれてありがとう』などと言われて感謝される側でした。ところが、役員になってイベントの裏方になると、資金集めから始まって、公民館の掃除、食器の片付けやゴミの処理など、実にさまざまな仕事を行うことになりました。そのため、いままでは気がつかなかった裏方の役割の大切さがよく分かりました」

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平瀬町長をまじえて活発な討議を行う時津町議会。見事に初当選を遂げた平瀬町長でしたが、難題が待ち受けていました


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海洋センター事業に深い理解を示した平瀬町長(写真左)。町政に携わりながら、「B&G全国町村長会議」初代副会長、ならびに「B&G全国サミット」副会長の役職も担ってくださいました

 “舞台に上がりたがる人は多いが、舞台を作る人はなかなか増えない”。そんな言葉を頭に刻みながら、率先して裏方仕事をこなしていった平瀬町長。そんな日々が続くなかで、いつしかある噂が立ち始めました。誰となく、平瀬町長の町長選出馬を語り始めたのです。

 「私の名前だけが、知らないうちに一人歩きをし始め、郵便局の窓口で顔を合わせる人たちからも、『次は出るんでしょ』などと声を掛けられるようになっていきました」

 そうこうしているうちに、知人などからはっきりと出て欲しいと頼まれるようになったため、平瀬町長は大きな決断に迫られました。

 「自治公民館の役員をして裏方仕事の大切さを痛感していたので、その経験を町づくりに活かしてみようと考えて出馬することを決めました。また、それなら半端な選挙はしたくないので、早々に郵便局を退職して応援体制を整えていきました。落選しても人のせいにはしたくなかったのです」

 1999年11月、そんな気持ちが通じて平瀬町長は見事に初当選を達成。しかし、期待の声を受けて役場に当庁すると、早くも難題が待ち受けていました。ふるさと創生事業の一環として既に建築契約が結ばれていた文化ホールの着工が迫っていたのです。

 「文化ホールは、国や県の助成を受けつつ町が十数億円もの借金をして建てることになっていました。景気が良いときならいざ知らず、バブルがはじけた後でしたから、金融畑を歩んできた私の目からすれば、これは大きな問題に写りました」

 就任早々、頭を抱えた平瀬町長でしたが、ここで逃げるわけにもいきません。銀行や郵便事業で培ったノウハウを全力投入して問題の克服に取り組みました。(※続きます)

写真提供:時津町