本文へ 財団法人ブルーシー・アンド・グリーンランド財団 サイトマップ
HOME B&G財団とは プレスリリース イベント情報 全国のB&G リンク集

夢に向かってチャレンジする子を応援したい ヨット470級オリンピック銀メダリスト、重 由美子さんが歩む道


注目の人
ヨット470級オリンピック
銀メダリスト
重 由美子さん


昭和40年(1965年)生まれ、佐賀県唐津市出身。
小学5年生でヨットを始め、唐津東高校時代には国体、インターハイで活躍。以後、470級選手として世界をめざし、1992年バルセロナオリンピック5位、1996年アトランタオリンピック2位、2000年シドニーオリンピック8位を獲得。
佐賀県ヨットハーバー職員、B&G虹ノ松原海洋クラブ、玄海セーリングクラブ所属。B&G財団評議員。


 兄弟の影響を受けて、小学5年生のときからヨット教室に通うようになった重 由美子さん。中学時代からレース活動を始めると頭角を表し、高校時代には国体やインターハイで活躍。やがてオリンピックをめざして世界に飛び出し、ついには1996年のアトランタオリンピックで銀メダルを獲得。現在は、地元唐津市の佐賀県ヨットハーバーで後輩の指導に務める傍ら、B&G財団でも評議員のほかさまざまな研修事業をお手伝いいだいています。
 今回は、日々の仕事を通じて「世界に羽ばたく選手を育てたい」と意欲を示す重さんに、ヨットへの思いを大いに語っていただきました。

第3話:メダルを懸けた闘い

新たな挑戦

写真:アトランタオリンピックで力走する重さん木下さんペア
アトランタオリンピックで力走する重さん木下さんペア。得意とする軽風のクローズドホールドでは他を圧倒する勢いがありました(写真:舵社/矢部洋一)

写真:銀メダルを確定してフィニッシュする重さんペア
銀メダルを確定してフィニッシュする重さんペア。この瞬間を大勢の人が待っていました(写真:重 由美子)

 バルセロナオリンピックに出場し、セーリング競技において国内歴代最高位となる5位入賞を果たした重さん、木下さんペア。帰国後は、取り逃がしたメダルを手にするため、さっそく次のアトランタオリンピックをめざした活動が始まりました。

 「アトランタに向けた4年間は、バルセロナの失敗を取り戻すため一日一秒も無駄にしたくないという思いで活動したため、あっという間に過ぎていきました」

 松山コーチは、練習計画を重さんやクルーの木下さんに任せ、重さんたちから相談を受けるまではアドバイスを控えました。そのため、重さんたちには絶えず考える時間が求められました。

 「極端な話、練習をしなくても松山先生は叱ったりしませんでした。逆に言えば、ダメになるときは自分で勝手にダメになるというわけです。ですから自分への責任は重く、何でも自分で考えて行動しなければならないので、とても濃密な時間を送ることができました」

 松山コーチを、「辛抱強い先生」、「待つことが上手な先生」と評する重さん。そんな恩師の姿は、時間が掛かっても皆で考えながら授業を進めた、小学校時代の担任の先生と重なって見えました。

 「松山先生は、『ヨットを人に教える際は、相手が気づいていないことをいろいろ細かく指摘しても、それは相手の心に残らない。相手が気づいて正しいやり方を知りたいと欲するまで待て』とよく言います。

 私もヨットの指導員ですから、その言葉を大切にしています。人に何かを教える仕事はとてもたいへんです。しかし、人の振り見て我が身を正すではありませんが、人に教えたことが自分にフィードバックされて自分のためになることが少なくなりません。

 実際、私は仕事で高校生たちのヨット指導をしていますが、彼らはオリンピックのように4年のスパンではなく、1年ごとが勝負です。そのため、1年という時間を無駄に過ごすまいと無我夢中で練習に励みます。

 そんな彼らを教えながら、こちらが元気をもらうこともよくあります。アトランタをめざしたときも、彼らの姿を見ることで何度も精神的に助けられました」

写真:ESPと記されたセールのスペインチームが風上からJPNの重さんチームに迫ります
同点首位で臨んだ第10レースのスタート。ESPと記されたセールのスペインチームが風上からJPNの重さんチームに迫ります(写真:舵社/矢部洋一)

写真:表彰台でメダルを手にする重さん、木下さん
表彰台でメダルを手にする重さん、木下さん。長年の苦労が報われた瞬間でした(写真:重 由美子)

夢の達成

 初めてのオリンピックということもあり、心が空回りして思うように体が動かなかったバルセロナ大会。そんな重圧に屈しないよう、アトランタ大会では心理学者のもとでメンタルトレーニングに励んだ重さん。松山コーチも、10人のサポートチームを編成して重さん、木下さんペアの遠征生活をしっかりサポートしてくれました。

 「多くの人がきめ細やかに私たちをサポートしてくれたので、気持ちが乱れそうになってもすぐ元に戻ることができました」

 そんな頼もしいチームが応援するなかで始まったアトランタ大会。バルセロナ大会では、どのレースでも一心不乱にトップフィニッシュをめざしましたが、今回は得意の軽風レースでトップを狙い、強風では自分たちの走りに徹してトップ下でも構わないという戦術で臨みました。

 その甲斐あって、レース3日目まで総合5位の位置に甘んじていたものの、軽風でチャンスをつかめば挽回できると読んで心を落ち着かせ、軽風が続いた4日目、5日目のレースで首位争いに浮上。その勢いに乗って、以後はバルセロナ大会で優勝したスペインチームと一騎打ちのレースを展開。全11レース中、8日目の第9レースを終えた時点で宿敵スペインと同点首位で並び、メダルどころか優勝の二文字まで見えてきました。

 「後で振り返ったとき、金メダルを取りたかったなと思いました」と語る重さん。しかし、残る2レースを最後までスペインと渡り合い、ついに総合2位で銀メダルを獲得。1936年のベルリンオリンピックから挑戦してきたメダル獲得という、日本セーリング界の悲願がここに達成されました。

写真:メダル獲得チームが揃った記念写真
メダル獲得チームが揃った記念写真。左右の端が優勝したスペインチーム。中央に並んだブルーのユニフォームが3位のウクライナチームです(写真:重 由美子)

写真:文字とメダルのイメージだけで重さんペアの快挙を報じたヨット雑誌KAZIの表紙
当時はフィルムの時代だったため写真が間に合わず、文字とメダルのイメージだけで重さんペアの快挙を報じたヨット雑誌KAZIの表紙。普段、同誌は写真を使った表紙を採用していますが、このときばかりは特例でした(写真:舵社)

忘れられない思い出

 2位が決まってハーバーに戻ってきた重さんたちに、「おめでとう」と言ってまっさきに声をかけてくれたのは、3位に入ったウクライナの選手たちでした。実は重さんも、自分たちが2位に入ったことが分かるやいなや、すぐにウクライナ艇の順位が気になったそうです。

 「どの国の選手も、世界中を転戦しながらオリンピックをめざしていくので、そのようなレース生活を送るなかでお互いにライバルではあるものの自然に交流も深まります。特に、アトランタオリンピックのときはウクライナの選手たちとずっと一緒に練習をしており、とても気が通っていました。

 また、当時のウクライナは独立したばかりでヨットの活動も十分にできないような状況でしたが、彼女たちはそのなかで苦労しながら世界を相手に勝ち上がってきたペアでした。ですから、私たちの結果もさることながら彼女たちの成績もとても気になりました」

 ウクライナは、最終レースで順位を上げ逆転で銅メダルを決めていました。その結果を知った重さんたちも大喜び。2チームで肩を抱き会いながらメダル獲得を祝いました。彼女たちとは、いまでも連絡を取り合う仲で、毎年、クリスマスカードが来るそうです。

 銀メダルとともに、そんな思い出を日本に持ち帰った重さん。続くシドニーオリンピックでも8位入賞を果たし、現在も現役の選手として国体などで活躍しています。(※最終回に続きます)