ホイットブレッド世界一周ヨットレースに、日本から初めて参加したヤマハ発動機チーム |
ディンギーヨットでオリンピックをめざす一方、外洋クルーザーレースにも精力的に参加し続けた小松さん。1993年には、ついにホイットブレッド世界一周ヨットレースに挑むことになりました。
世界一周ヨットレースには、1人乗りヨットで競う単独世界一周レースと、ホイットブレッドのようにフルクルー(大勢の乗員が作業を分担しながら操船すること)で挑むレースの2種類があります。 単独世界一周レースの場合は操船のすべてを1人でやらねばならないサバイバル的な過酷さがあり、フルクルーの世界一周レースでは乗員が交代しながら常にトップスピードを維持しなくては勝てない厳しさがあります。いずれのレースも、まさに頂点の外洋ヨットレースとして、オリンピックとは違った意味でヨットマンの憧れの的になっています。
「幸いなことに、私が勤めるヤマハ発動機が日本から初の参戦を決めて、このレースのために高性能の外洋レーシングヨットを建造したのです。当然のことながら、私も出場したいと願いました」
当初、ヤマハ発動機では、過去のホイットブレッド世界一周レースで実績を重ねていたロス・フィールドという有名な選手を艇長に据えながら、クルーもこのレースの経験者を中心に外国人セーラーで固める計画を立てていました。
そんな状況のなか、「日本船籍のヨットが参加するのなら、日本人も乗るべきだ」と考えた小松さんは、自らロス艇長に手紙を書いて、自分もクルーとして参加したい旨を伝えました。
このとき、小松さんは43歳。前年にはバルセロナオリンピックに出場していたので、まだまだ体力や気力には自信がありましたが、ディンギーレースとは比較にならないほど過酷な海を走らねばなりませんから、ロス艇長はじめ周囲は年齢的なハンディをかなり心配しました。
チーム一丸となっての操船。小松さんは中央でグラインダー・ウインチを回しています |
「私が手を挙げたとき、ちょうどレース艇が完成してハワイでテストセーリングをしていました。その最後の仕上げとしてハワイから日本までテスト航海してみようということになり、それに私も参加させてもらえることになりました。ヨットのテストのほか、私のテストでもあったのです」
ヨットにおけるハワイ〜日本間の最短時間記録は24日。ヤマハ発動機チームは、それを10日短縮して、わずか14日で走破する計画を立てました。結果、航海の中盤でマストが折れてしまいましたが、小松さんたちクルーは大奮闘。普通なら救援を待つところですが、折れたマストを改造しながらセールを張り続け、なんと28日で完走してしまいました。
「私は、コマツのレース参加に賛成だ。クルーの皆はどう思う」とロス艇長。もちろん、誰にも異論はありませんでした。
晴れてクルーの一員に迎えられた小松さんでしたが、レースが始まるまでにはとても厳しい練習が待っていました。
「ハワイから日本までの航海の後、私たちはニュージーランドで合宿を張り、ラグビーのオールブラックスを指導したトレーナーのもとで基礎体力を養うことになりました。毎朝、とてもハードな練習が行われたので、さすがの私も自分の年齢を気にしましたが、トレーナーは『心配するな』と言ってくれました」
ゴールの瞬間、手を挙げて喜びを表すロス・フィールド艇長(右端)、小松さんも笑顔を見せています(左) |
これは、小松さんのガッツを見抜いてのアドバイスでした。8ヵ月間の合宿で、最後に小松さんはウエイトリフティングで2位、ランニングでも2位、総合でトップの成績を収め、周囲を驚かせました。
「日本人は私一人しかおらず、どうしても根をあげたくなかったので、誰よりもたくさん練習しましたから、その結果が現れたのでしょう。また、合宿では精神面においても徹底した訓練が行われました。半年にわたってクルーの男たちが1艇のヨットの上で共同生活をしていくわけですから、ロス艇長曰く、『このレースに、プライベートな時間や空間は一切ない』というのです。そのため、合宿に入ってレースが終わるまでは、けっして1人だけの時間をつくることは許されず、食事も睡眠も常に複数のクルーと一緒に行動させられました。当時は夢中でしたから、辛いと思わないようにしていましたが、いま振り返ると、1人になれない厳しさによく耐えたと思います」
こうした過酷な訓練の成果は、レースが南氷洋に差し掛かったところで発揮されました。南氷洋は、台風並みの風が毎日のように吹き荒れる難所として知られています。
「水温も気温も2、3度しかなく、しぶきをかぶらならい日はありません。おまけに私たちの艇ではヒーターが壊れてしまったので、暖を採ることも濡れた衣服を乾かすこともできず、寝袋に入るときもペーパータオルで一度中を拭かないと湿気が取れない状況が続きました。この辛さは、とても言葉では表現できません」
外洋レースでは、艇の重量を極力軽くするため、クルーが持ち込める私物は限られます。このとき、小松さんたちに許された着替えはたったの2着分。結局、何週間も冷たく濡れた衣服を着ながら、荒れた海を走破することになってしまいました。体力がなければ持ちこたえられませんし、チームワークが乱れたら遭難の危険が生じます。
ホイットブレッド世界一周ヨットレース、ゴール直後の小松さん |
「とても厳しい航海になりましたが、美しい氷山の姿を見ることはできました。真っ暗な夜でも、わずかな光を反射してきれいに輝いて見える氷山の姿は荘厳です。また、地の果ての海でも鳥が飛んでいるのですから、彼らのたくまさしさには教えられるものがありました」
これらは、過酷な試練に打ち勝った者でしか味わえない感動といえるでしょう。しかも、小松さんたちのチームは、このレースで総合優勝を果たすことができました。ホイットブレッド世界一周レースを走破したクルーは、ホイットブレッダーとして世界のセーラーから尊敬の眼差しを向けられます。小松さんは、そんな勇者の1人になっただけでなく、総合優勝の栄誉も手にすることができました。
「ホイットブレッド世界一周レースでは、4時間単位で過酷なデッキワークをこなし続け、食事の時間やメニューの内容もきっちり定められていますから、クルーたちは航海中にどんどん精悍な顔つきになっていきます。レースを走り終えたとき、まわりのクルーを見ると、まるで修行僧のように輝いていました」
もちろん、小松さん自身もオーラを放っていたに違いありません。この貴重な経験は、その後、小松さんがヨット指導者の道を歩んでいくうえで、とても大きな力になっていったそうです。 ※ 続く
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