本文へ 財団法人ブルーシー・アンド・グリーンランド財団 サイトマップ
HOME B&G財団とは プレスリリース チャレンジスポーツ スポーツ施設情報 リンク集



 
語り:山口県議会議員、NPO法人「森と海の学校」理事長 岡村精二さん

■プロフィール
1953年、宇部市生まれ。1974年、国立宇部工業高等専門学校卒業。1977年、日本初の手作りヨットによる単独太平洋横断に成功。1979年、NHK「青年の主張」全国大会で優秀賞、発表文は高校の教科書に採用。1984年、体験教育を取り入れた学習塾「おかむら塾」を開塾。1992年、「第一回ジュニア洋上スクール」を実施(継続中)。1999年、NPO法人「森と海の学校」設立。宇部市議会議員当選。現在、山口県議会議員、NPO法人「森と海の学校」理事長、第一教育学習社取締相談役、岡村せいじ建築設計事務所所長、B&G宇部海洋クラブ代表、山口大学大学院理工学研究科博士過程在学中。

今から28年前、日本で初めて手作りのヨットで太平洋を横断。その体験を糧に冒険家の道を歩むかどうか悩んだ末、「一度出てしまえば誰も頼れない海というフィールドは、絶好の教育の場でもある」という信念を抱いて、体験教育を重視した学習塾を開いた岡村精二さん。人間教育に真摯に打ち込むその姿は多くの人の心を掴み、活躍の場は政治の世界にまで拡大していきました。そんな岡村さんの精力的な半生を連載でご紹介します。
 



 中学3年生のとき、ヨット冒険家として脚光を浴びていた堀江謙一さんの著書に出会ったことが、人生を決めたと語る岡村さん。思いは太平洋へと雄飛し、毎日、地図を眺めては日本からアメリカ西海岸までの航路を頭に描き続けたそうです。
 「高校生になると、ジョン万次郎などの漂流記を読み漁るようになり、太平洋は海流に乗って自然に渡れることを知りました。何もしないで、ただ漂流しているだけでも300日ぐらいあれば日本からアメリカ西海岸に辿り着くことができるのです。それなら、漕いで渡ってみよう! おそらく200日もあれば行けるのではないか? そんな風に好奇心をどんどん膨らましていきました」
 思いが募る一方で大きな壁にも直面しました。それは、もしここで冒険航海に出たら大学への進学は断念しなければならないということでした。
 「大いに悩みましたが、森村 桂さんの小説『天国に一番近い島』のなかに『夢を夢のままにせず、その実現に向かって努力することが、生きることである』という下りがあって、それを読んだときに心の中のモヤモヤが一気に晴れました。それまで、太平洋を漕いで渡った人はいなかったですから、そんな誰もしたことのない夢に挑戦してみたい。達成できてヒーローになるというより、やりたいと思ったことをやらないで後悔したくないという気持ちでした」
 夢を叶えるためには、それなりの資金が必要です。岡村さんは宇部工業高等専門学校を卒業すると、お金になると言われた底引き漁船に乗り込みました。
 「卒業の際、担任の先生から親子で呼び出されて『お前、本当に漁船に乗る気なのか!』と問い詰められてしまいました。学校には、進学に備えて1年浪人すると言っていたのです。先生はかなり怒っていましたが、最後に母さんが泣きながら『先生、今回の件だけは黙って見てあげてください。(太平洋横断は)やってみてダメなら諦めがつくはずですから』と言ってくれました」
 太平洋横断は親不孝物語の極みだったと、岡村さんは当時を振り返ります。堀江さんの本を読んで自分も同じ夢を追いたいと口に出し始めた中学生時代から、太平洋を渡って帰国するまで、父親とは口を利いたことがなかったといいます。少しでも冒険の話をすると喧嘩になってしまうからでした。
 「もっとも、母さんは別でしたね。一度も止めろとは言いませんでしたし、出航の際も笑顔で送ってくれました。しかし、ヨットなんて乗ったことがなかったのですから、無謀といえば無謀な話だったと思います」
 母親の理解に助けられて漁船に乗るようなった岡村さん。その後、賃金の高い仕事を求めて貨物船やタンカーなどを乗り継ぎ、大卒初任給が6万円の時代に、2年半ほどで350万円もの貯金を手にすることができました。


 

 十分な資金を手にすると、艇選びが始まりました。岡村さんが目指したのは太平洋を1人で漕いで渡ることでしたが、最初に、ある人から「ヨットでなければ海外渡航は認められないだろう」という指摘を受けてしまいました。

 ちなみに、ヨットでの海外渡航も堀江謙一さんが太平洋を渡った後で、ようやく認められました。当時、堀江さんはヨットでの出国は認められないことを知っていたため、やむなく密出国の形で太平洋を渡りました。そのため、サンフランシスコに着いたときには日本のマスコミから犯罪者扱いされてしまい、法務省もアメリカ政府に強制送還を求めましたが、このような状況を察知したサンフランシスコ市長が機転を利かせて堀江さんを名誉市民として迎え入れ、強制送還を阻止してくれたのです。それを受けて日本の各マスコミも堀江さんをヒーローとして扱うようになり、その後、ヨットでの海外渡航も許可されるようになりました。それゆえ、堀江さんは「単独太平洋横断」と「ヨットによる海外渡航の自由化」という2つの冒険を達成したと指摘する人が少なくありません。

 さて、岡村さんはベテランのヨットマンやヨット設計者などからさまざまな意見を聞いて回り、理想的な愛艇の姿を追い求めました。
 「要は、ヨットであれば出国に問題はないわけですから、ヨットの図面を基に、見た目だけヨットにして、マストはすぐに取り外せるように工夫しました」
父親が大工さんだったたけに、岡村さんは幼い頃から工具を使うことに慣れていて、堀江さんの冒険に感化された中学生時代には全長4mのボートを、高専時代には全長5mのヨットを建造していました。太平洋に出る愛艇は、全長21フィート(約6.3m)のヨットがベースとなりました。岡村さんは、1人で建造に取り掛かり、ヨットに詳しい人のアドバイスを取り入れて、漕ぐのは伝統的な櫓(ろ)としました。
 「最初はオールを考えていましたが、櫓は押したときも引いたときも推進力が得られますから効率がいいんです」
 岡村さんは独学で櫓の漕ぎ方をマスター。準備万端、出航の日を待ちました。


 1976年、23歳を迎えた年に、ようやく夢が叶うときがやってきました。太平洋を漕いで渡るとは誰にも言っていませんでしたが、手作りヨットでのチャレンジは日本初ということで話題になり、多くの人が見送りに来てくれました。
 「そんななかでも、父さんだけはひと言も口を開いてくれず、ただ黙って握手をしてくれただけでした」
当時、人気のあった歌手で岡村さんも大ファンだったという南 沙織のニックネームを艇名にした〈シンシアIII世〉号(自作3隻目なのでIII世)は、順調にセーリングで南下。八丈島沖に到着した段階でセールとマストを取り外し、いよいよ櫓だけを頼りに針路をアメリカ大陸へ向けました。

シンシア[世

 「出航した日、両親から渡された重箱の弁当を洋上で開いてみると、一段目に「がんばれ! 母」という短い手紙が差し込まれており、続いて二段目を開けてみると、なんと「生きて帰れ! 父」という手紙がありました。それまで口を利いたことがなかった父さんでしたが、実は私のことをずっと見守っていてくれたのです。その2つの手紙は、ビニール袋に入れて船内に貼ってお守りの代わりにしましたが、涙がこみあげて止まりませんでしたね。今から6年前、偶然にも船内の様子とともにその手紙が写っている写真を手にすることがあって、よく見ると実は2つの手紙の筆跡はともに父さんのものでした。その事実を知るのに20年近くもかかってしまいましたが、あらためて父さんの愛を知ることができました」
 櫓で漕ぎ始めて3日目、「生きて帰れ」とひと言だけ伝えてくれた父親の気持ちに報いなければならない出来事が早々にやってきました。
 「雨が降り出したので、波は高かったのですがデッキに出て体を洗い、着替えるために船内に入った瞬間、ゴーという音とともに一気に転覆してしまいました。あわてて船内から抜け出して救命イカダに乗り移り、SOSの発信準備をしていると、元々がヨットですから艇が起きがってくれました。しかし、救命イカダと艇を結んでいたロープはすでに切れていて、どんどん艇から遠ざかっていくばかりです。救命イカダが艇から15m以上離れると、両方を結んでいるロープは自動的に切れるようになっていたのです。『しまった!』と思いましたが、なんとそれまで流し釣りをするために船尾から流していた釣り糸が救命イカダに絡んでいるじゃないですか。恐る恐る釣り糸をたぐり寄せてどうにか艇に戻ることができました。こればかりは神様のおかげだったと言うほかはありません」
 ほっとするのも束の間、今度は船内にたまった海水を汲み出さねばなりません。一晩かかってバケツで汲み出しましたが、どこからか水漏れが起きていることに気がつきます。
「これでは航海は無理だと判断。封印していたマストとセールを取り出し、セーリングで陸地を目指すことになりました。すると、1隻の漁船と遭遇したため、母さん宛てに『引き返す』旨の電報を打ってくれるようお願いしました」
 緊急事態で仕方がなかったとはいえ、引き返しながらも岡村さんは、これで良かったのかどうか大いに悩みます。船板が海水に馴染んで膨張したため、水漏れが止まり始めていたことも気持ちを動揺させました。
「2日ほどたって、また別の漁船と遭遇。今度は、『やはり行く』との電報を頼んでしまいました。人間の意志は、思っているほど強いものではありません。私の場合も、このときは強い自分と弱い自分が格闘しあっていましたね。でも、時間がその葛藤を解決してくれました。時間は、人の心の傷を癒して冷静な自分を取り戻す手助けをしてくれるのです。時間の経過とともに、帰ろうという弱気な部分が段々と薄らぎ、帰る距離だけ前へ進めば日付変更線ぐらいまでは行けるじゃないかという、前向きな気持ちが強くなっていきました」
岡村さんは、それで良かったのかもしれませんが、「帰る」、「行く」という電報を立て続けに受けた母親にしてみれば、たまったものではありません。
 「後で聞いた話ですが、『引き返す』という電報を手にしたときは、これでいいとホッとしたそうです。でも、続けて『やはり行く』との知らせを受けたときは、これは大変なことになると思ったそうで、神社に行ってお百度参りをしたそうです」
 通常、ヨットなら遅くても80日ぐらいあればアメリカに到達できます。しかし、見送った人たちは、まさか漕いで渡っているとは思っていませんでしたから、80日を過ぎても連絡がないため心配しはじめ、100日を過ぎたあたりで大半の人が諦めの境地に達してしまいました。
 「アメリカに着いたという国際電話を家に入れたのは、147日目のことでした。電話に出たのは母さんでしたが、受話器からなかなか声が聞こえてきませんでした。父さんは留守でしたが、兄が私の無事を知らせに走ると、黙って下を向いて泣いていたそうです」
 この航海は親不孝の極みだったと岡村さんは何度も言いますが、自分とって親がどんな存在なのかを思う、とても良い機会であったことも確かだと言います。実際、この航海で知りえた親の愛というものが、その後、岡村さんの仕事のなかで大きな意味を持つことになっていきます。


  つづく 第2話

バックナンバー
 
戻る


お問い合わせはこちら:infobgf@bgf.or.jp
copyright