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アテネオリンピック・セーリング競技で銅メダルに輝いた、
関 一人・轟 賢二郎ペアのサクセスストーリー


取材協力 :関東自動車工業株式会社 写真提供:舵社(撮影 中島 淳)



 今年開催された第28回アテネオリンピックのセーリング競技、男子470級で銅メダルに輝いた関 一人・轟 賢二郎ペア。日本でヨットに乗る者たちの長年の念願を叶えた、この2人の若者のサクセスストーリーを連載で紹介しています。

プロローグ

 
オリンピックのセーリング競技において、日本は過去に女子種目で重 由美子(現在、B&G財団評議員)・木下アリーシアのペアがバルセロナ・オリンピックで銀メダルを獲得しましたが、男子種目においては誰もメダルに手が届いていませんでした。そのため、今回のアテネオリンピックでは(財)日本セーリング連盟が「アテネの海に日の丸を」というスローガンを掲げて夢の実現を願いましたが、関 一人・轟 賢二郎ペアが、まさにその言葉どおりの活躍をしてくれました。
 最終レースが終わった直後、取材ボートのマイクに向けて轟選手が発した第一声は、「このことで、少しでも多くの人がヨットに関心を抱いてくれたら幸せです」という内容の言葉でした。また、この記事の取材の最後に、関選手は「これからは、もっと社会がセーリングに目を向けてくれるような活動にも力を入れていきたい」と語ってくれました。
彼らは、勝たねばならないというアスリートとしての宿命を背負いつつも、これまでずっとヨットを愛し続け、また、その魅力をより多くの人に伝えたいと願い続けているのです。同じ海の仲間として、これほどうれしいことはありません。
 関選手(スキッパー)と轟選手(クルー)は、ともに1975年生まれで同じ千葉県の出身。高校も、学校こそは違いますが、茨城県の霞ヶ浦という同じ水面でヨット部の活動をしていました。これが、2人を結ぶ原点になります。
 その後、大学では関東、関西とそれぞれ別の水域で活動することになり、社会に出てからも一時期は離れ離れでしたが、関東自動車工業(株)ヨット部にいた関選手が、クルーとして轟選手を招聘。いきなり、その年の全日本選手権を奪取するなど、目覚しい活躍を続けながらアテネへ挑むことになりました。
 前回は、両選手がヨットと出会った経緯から、夢中になって乗り始めた頃の話をご紹介しましたが、今回は2人の将来の目標がはっきりと見えてきた頃の話に移ります。

自分の進路はこれしかない!
■ 中学卒業を前に、心に決めた就職先:関 一人

 きわめてめずらしい、ヨット部のある中学に進学してセーリングの腕をメキメキ上げていった関選手。2年生でOP級の世界選手権大会に出場し、3年生のときにはアジア大会で優勝するという快挙を成し遂げました。
 「アジア大会に出たとき、日本のヨットレース界をけん引していた、関東自動車工業ヨット部の中村健二選手と話をするチャンスを得ました。当時、中村選手はオリンピック種目の470級で活躍していましたから、ボクにとっては憧れの存在です。話をするといっても無我夢中で、『どうしたらボクも関東自動車に入れるのでしょうか。そこでボクもとことんヨットをやりたいです』と、心に秘めていた正直な気持ちをいきなり言ってしまいました」
 関東自動車工業ヨット部といえば、昔から優秀な選手を輩出している実業団の名門で、オリンピックをめざす部員が出れば会社ぐるみで応援してくれます。幼い頃からヨットレースに出ていた関選手も、当然、そのことを知っていて、環境に恵まれた同社のヨット部に対して強い憧れを感じていたのでした。


 中学生から突然、会社に入りたいと言われた中村選手は、さぞ驚いたことでしょう。しかし、そこは冷静になって「大学に入ることが先決で、卒業するときにもう一度自分で考えてみなさい」とアドバイスしてくれました。
 すぐさま、関選手は「どうやって大学に入ろうか」と模索したそうです。この時点で、自分の進路がはっきりと頭のなかに描かれたのでした。
 「中学3年のときでしたから、まずは高校を決めなければいけません。そこで、中村選手に言われたように大学に行かねばならないのなら、大学の附属高校にするのが手っ取り早いと考えました」
 関選手が選んだ附属の高校は、土浦日大高校でした。その先にある日本大学のヨット部は名門中の名門と呼ばれ、中学、高校時代に優秀な成績を残したエリート選手ばかりが集まります。
 「(土浦日大高校に決めたのは)ヨットをやりたい一心からでした」と、関選手は当時を振り返りますが、どうせやるのなら頂点をめざしたいという、漠然とした思いが芽生えていたにちがいありません。
 「アジア大会に出たとき、ニュージーランドから来ていた国際審判員の方がたいへん目を掛けてくれ、『ニュージーランドに来ないか』とも言ってくれました。どうせヨットをやるのなら若いうちから外国に出てもいいかなとも思いましたが、そうしたら関東自動車工業に入ることが難しくなってしまいます」

 ニュージーランドといえば世界屈指のヨット先進国です。そこからの誘いを断って決めた進路でしたから、高校に入って以来、関選手の気持ちに迷いは生まれませんでした。
 「高校に入ってからは、いったん『関東自動車工業に入りたい』という思いを断ち切りました。 それより、高校生のなかで一番の選手になりたいと熱望しました。そう言うと、なんだか負けん気が強い性格のように思われてしまいますが、ヨットレースのときは別にして、いたって普段はおとなしいんですよ。いまでも、カミさんに小言を言われると、すぐに『ゴメン』と言ってしまいます(笑)。よく、サッカーの中村俊介選手に顔が似ているって言われますが、キャラクターも似ていると思いますね。中村選手は、ときどきグラウンドで下を向いてボソボソと独り言を口にしますが、ボクもそんなタイプです。常にスポットライトを浴びている中田選手などとは違って、下を向きながらも淡々と頑張る、そんなキャラクターなんですよ」
 ヨットと並行して、幼い頃からサッカーをしていた関選手。中学校に上がるときにはプロチームのユースに誘われたこともあって悩んだ時期もありました。もし、サッカーの道を選んでいたら、中村俊介選手のようにフリーキックの名手になっていたのでしょうか? それはそれですばらしいことだとは思いますが、そうなると今年のアテネオリンピックで日本人ヨット選手のメダリストは誕生しないことになってしまいます。
 さて、高校生で一番のヨット選手になりたいという目標を掲げた関選手でしたが、その言葉どおり、高校総体、国体と次々にタイトルを獲得。大学に進んでからも、エリートが集まる名門、日大ヨット部の一員として活躍しながら、着々とセーリングの腕を上げていくのでした。

オリンピック種目をめざしたい!
■ 世界を経験して、明らかな目標を知る:轟 賢二郎選手 

 高校総体で母校、霞ヶ浦高校を優勝に導き、これから先、進む道はヨットしかないと決心。父親からも「やるのなら、とことんやれ!」と励まされた轟選手は、スポーツ推薦で京都産業大学へ進学することになりました。
 「京都に下宿して、琵琶湖にある合宿所に通う日々となりましたが、高校時代とはだいぶ異なる練習生活に戸惑ってしまいました」
 子どもの頃から格闘技が好きだった轟選手。高校時代にはレスリング部に入ろうとしましたが、部の決まりである坊主頭になるのがいやで入部をあきらめた経緯がありました。
 代わりに入ったヨット部は自由な気質にあふれ、1年生のときから霞ヶ浦を思いのままにセーリングすることができたそうですが、これはマレなケースであると言えるでしょう。一般的な高校、大学のヨット部で新入生がいきなり舵を握ったり、思いのままに走ったりすることは、そう多くありません。轟選手が入った大学もしかりで、そんな高校時代とは違った世界に戸惑ってしまったのでした。
 「ひとことで言えば、よくある体育会系の社会だということです。常にヨット部という団体が尊重され、たとえば合宿をしている最中に個人が練習を離れてレースに出るということは許されません。組織の一員なのだから仕方がないのでしょうが、自由が束縛されている感じを受けました」
 ところが、同じ思いを抱いた部員も少なくありませんでした。轟選手が入部して間もなくすると部活を改革しようという声が出始め、1年生ではあったものの轟選手はその年の470級ジュニアワールドに出場させてもらえることになりました。
 「ハンガリーで開催されたその大会は、ボクにとって初めての海外遠征となりました。日大から関も出場していましたが、ボクは総合7位と、彼よりもいい成績でレースを終えることができました」
 初めての海外遠征で、総合7位という良い結果を出すことができた轟選手でしたが、得たものはそれだけではありませんでした。
「世界中の人たちが、1つの競技のために集まるということ自体に大きな感動を覚えました。アメリカ、フランス、イタリア、インド等々、どの国の人も皆、ヨットを知っているんだってね。そんなの当たり前のことなのですが、なぜか興奮してしまい、いままでいかに自分が狭い世界でヨットに乗っていたのかを実感しました。そして、この大会で総合7位という成績を収めることができ、シリーズ戦のなかでは2位や3位でフィニッシュしたレースもありましたから、これだったら世界レベルで戦っていけるかもしれない! だったら、もっともっとレースを経験したい! どうせなら最高峰のオリンピックをめざしたい! という感じにどんどん気持ちがエスカレートしていきました」
 このとき、オリンピックという目標がはっきり頭に描かれたと、轟選手は言います。大学1年生、18歳のときでした。
 「オリンピックへのこだわりが生まれたのは、中村健二選手の存在があったからだと思います。中村選手は母校、霞ヶ浦高校の先輩で、当時、470級ワールドで世界の強豪を相手に2位とか3位の成績を出していました。同じ日本人で、同じ高校のOBが世界で活躍しているのですから、刺激されて当然です。もっとも、中村さんとはいつもすれ違いで、ちゃんと話をすることができたのは、かなり先になってからのことでした。それまでは、ずっと遠い存在のままでしたね」
 意気揚々とハンガリーから帰国した轟選手でしたが、彼を待っていたのは辛い試練でした。せっかく470級でオリンピックに出る目標を立てたのに、部の決まりでスナイプ級に乗らなければならなかったのです。
「スポーツ推薦で入学した部員には、リーダーとなって他の部員を育てるという使命が与えられます。大学のヨット競技種目には470級とスナイプ級の2種目がありますから、470級ばかりに専念するわけにはいかないのです」
オリンピック種目の470級に乗りたい。目の前に470級ヨットがあるのに、スナイプ級に乗らなくてはならない。そんなじれったい日々が続くなかで、ある日、ついに轟選手は監督と直談判し、2、3年生のときは470級に専念してよいという返事をもらうことができました。
 「2、3年生のときは、それこそガンガン練習しましたね。ダメで元々とばかり、アトランタオリンピックの国内選考にも挑戦しました。このときは、もうちょっとでナショナルチーム入りを果たせたのでしたが、急ごしらえの調整で臨んだこともあって力が及びませんでした」
 2年間という条件で、精一杯470級に乗った轟選手。あっという間に時間は過ぎていきましたが、この間に1つの大切な気持ちが芽生えました。
 「たとえばヨットの大学選手権で優勝しても、なかなか世間は高い評価をしてくれません。ラグビーやバスケットなどに比べて社会的な認知度が低く、マスコミの扱いにも雲泥の差があるんです。そんな状況に不快感を覚えるようになりました。なんとかしてセーリングのすばらしさを広めたい、そんな気持ちが日増しに強くなっていきました」
オリンピックに出るという目標に加え、セーリングを普及させたいという気持ちが湧いてきた轟選手。その願いは、大学を出て高校時代のライバル、関選手と再会することで一気に実現への道へ向かっていきます。

インタビューを受ける関選手(左)と轟選手(右)

 

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