自分の進路はこれしかない!
■ 中学卒業を前に、心に決めた就職先:関 一人
きわめてめずらしい、ヨット部のある中学に進学してセーリングの腕をメキメキ上げていった関選手。2年生でOP級の世界選手権大会に出場し、3年生のときにはアジア大会で優勝するという快挙を成し遂げました。
「アジア大会に出たとき、日本のヨットレース界をけん引していた、関東自動車工業ヨット部の中村健二選手と話をするチャンスを得ました。当時、中村選手はオリンピック種目の470級で活躍していましたから、ボクにとっては憧れの存在です。話をするといっても無我夢中で、『どうしたらボクも関東自動車に入れるのでしょうか。そこでボクもとことんヨットをやりたいです』と、心に秘めていた正直な気持ちをいきなり言ってしまいました」
関東自動車工業ヨット部といえば、昔から優秀な選手を輩出している実業団の名門で、オリンピックをめざす部員が出れば会社ぐるみで応援してくれます。幼い頃からヨットレースに出ていた関選手も、当然、そのことを知っていて、環境に恵まれた同社のヨット部に対して強い憧れを感じていたのでした。
中学生から突然、会社に入りたいと言われた中村選手は、さぞ驚いたことでしょう。しかし、そこは冷静になって「大学に入ることが先決で、卒業するときにもう一度自分で考えてみなさい」とアドバイスしてくれました。
すぐさま、関選手は「どうやって大学に入ろうか」と模索したそうです。この時点で、自分の進路がはっきりと頭のなかに描かれたのでした。
「中学3年のときでしたから、まずは高校を決めなければいけません。そこで、中村選手に言われたように大学に行かねばならないのなら、大学の附属高校にするのが手っ取り早いと考えました」
関選手が選んだ附属の高校は、土浦日大高校でした。その先にある日本大学のヨット部は名門中の名門と呼ばれ、中学、高校時代に優秀な成績を残したエリート選手ばかりが集まります。
「(土浦日大高校に決めたのは)ヨットをやりたい一心からでした」と、関選手は当時を振り返りますが、どうせやるのなら頂点をめざしたいという、漠然とした思いが芽生えていたにちがいありません。
「アジア大会に出たとき、ニュージーランドから来ていた国際審判員の方がたいへん目を掛けてくれ、『ニュージーランドに来ないか』とも言ってくれました。どうせヨットをやるのなら若いうちから外国に出てもいいかなとも思いましたが、そうしたら関東自動車工業に入ることが難しくなってしまいます」
ニュージーランドといえば世界屈指のヨット先進国です。そこからの誘いを断って決めた進路でしたから、高校に入って以来、関選手の気持ちに迷いは生まれませんでした。
「高校に入ってからは、いったん『関東自動車工業に入りたい』という思いを断ち切りました。
それより、高校生のなかで一番の選手になりたいと熱望しました。そう言うと、なんだか負けん気が強い性格のように思われてしまいますが、ヨットレースのときは別にして、いたって普段はおとなしいんですよ。いまでも、カミさんに小言を言われると、すぐに『ゴメン』と言ってしまいます(笑)。よく、サッカーの中村俊介選手に顔が似ているって言われますが、キャラクターも似ていると思いますね。中村選手は、ときどきグラウンドで下を向いてボソボソと独り言を口にしますが、ボクもそんなタイプです。常にスポットライトを浴びている中田選手などとは違って、下を向きながらも淡々と頑張る、そんなキャラクターなんですよ」
ヨットと並行して、幼い頃からサッカーをしていた関選手。中学校に上がるときにはプロチームのユースに誘われたこともあって悩んだ時期もありました。もし、サッカーの道を選んでいたら、中村俊介選手のようにフリーキックの名手になっていたのでしょうか? それはそれですばらしいことだとは思いますが、そうなると今年のアテネオリンピックで日本人ヨット選手のメダリストは誕生しないことになってしまいます。
さて、高校生で一番のヨット選手になりたいという目標を掲げた関選手でしたが、その言葉どおり、高校総体、国体と次々にタイトルを獲得。大学に進んでからも、エリートが集まる名門、日大ヨット部の一員として活躍しながら、着々とセーリングの腕を上げていくのでした。
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